神様仏様赤嶺様様

ファジアーノは、赤嶺の2得点によって2-1でレノファ山口を下し、気がつくと、これで7位浮上です。

酷い時には降格圏の一歩手前の順位を経験したファジアーノですが、勝ち点がほぼ誤差の範囲内とはいえ、PO圏の一歩手前まで上昇してきたのは、非常に喜ばしいことと言わなければなりません。

では、何がそんなに変わって来たのかというと割と分かりやすく、

ファジアーノの現時点での勝敗 10勝7分7敗、(2160分間)28得点28失点

今期の赤嶺の出場試合(4・5節、18~24節)の勝敗  6勝3分0敗

今期の赤嶺の出場時間(543分間)におけるファジアーノの得失点 13得点5失点

※赤嶺不在のファジアーノ 4勝4分け7敗、(1617分間)15得点23失点

・・・昨年は「押谷に点を取らせる」泣けるほどにチームプレーに徹してくれ、松本でのプレーオフ1回戦では劇的に決めてくれた赤嶺でしたが、今年は故障によって大きく出遅れ、その間のチームは・・・・・・という状態。

しかし、その赤嶺の復帰によって、ようやくチームプレーが機能するようになってきたのでしょう。故障せずに最後までご活躍いただけますよう、心よりお願い申し上げます!

忠臣、死を賜る

日曜の昼下がり。大きな鍋が火にかかっていたため、今日の昼ごはんとして、何か麺類をゆでているのだろうと思った私は、それがうどんなのか、そうめんなのか、スパゲッティ?なのか・・・を確認するために中を覗き込みましたが、そこには麺類は入っておらず、ただお湯がゆだっている状態でした。

そこに、妻が戻ってきました。

「昼ごはんが何かを確かめようとしたのか」

「はい、その通りです」

「お前の昼ごはんは・・・それだ」

そう言って、妻は去っていきました。

このやりとりから思い出されたのは、「三国志」における曹操の(たぶん)最大の忠臣であった荀彧の最期。

晩年、曹操と意見が対立しがちになり、病気もあって出仕しなくなった荀彧のもとに、曹操から贈り物が届きます。なんだろう・・・と思って開けてみると、中身は・・・空っぽ。

「嗚呼・・・・・・」

その「贈り物」に込められた曹操の意思を読み取った荀彧は、自ら死を選ぶのです。・゚・(ノД`)・゚・。

荀彧という人物は、曹操に早くから従ってきた参謀であり、政戦両面で曹操の栄達に貢献してきたのですが、自分自身の野心というものはほとんどなく、ただ曹操の覇業を成功させることだけに心を砕いた・・・という描かれ方が主流です。曹操と意見が対立しがちになった後に出仕しなくなった理由も、自分の意見が採用されなくなってふて腐れたというよりは、曹操と対立すること自体に耐えられなくなった、あるいは昔と変わってしまった曹操を見るのが悲しかった・・・という理由付けがされるほど、曹操大好き人間だったのですが、最後はその曹操によって死を賜るという哀しい結末を迎えることになりました。

もしかして、妻が夫にお湯だけの昼ごはんを賜るというのは、曹操の荀彧への空の贈り物と同じ意味を持つのでしょうか・・・?とても悲しい昼下がりの出来事でした。

 

 

最強のカブトムシ

長男が、近所のお店で夏の風物詩カブトムシをたくさんもらってきました。

長男がじっくりと観察した結果、その中に、体は小さいものの、非常に凶暴で荒々しい性格をしており、喧嘩に圧倒的に強いオスが1匹いることがわかりました。

気が付くと、長男は、その最強のカブトムシに長女(長男にとっては妹)の名前をつけていました・・・( ;-Д-)

長男は、恐妹組合の組合長なら、今すぐなれる資質を持っています。

チャン・ウー・チェン宇宙艦隊総参謀長(享年38)

銀河英雄伝説の個人的最燃え会戦であるマル・アデッタ星域会戦で壮絶な戦死を遂げたチャン・ウー・チェン宇宙艦隊総参謀長の戦死時の年齢が38歳と、私より年下だったことに衝撃を受けました。

っていうか、銀英伝の主要登場人物で私より明らかに年上って、もうビュコック提督、メルカッツ提督、ヨブ・トリューニヒトくらいしかいないのではないだろうか・・・?

ささやかすぎる反撃

今日、事務所へ自転車で向かう途中、一等地に建築中の家の施主として、見覚えのある名前を発見。名前的に、同姓同名の別人の可能性は薄そう。純愛同盟だという噂のうえ、一等地に家まで建てるとは。。。

そんなスタートとなった今日の終わりは、ついに長い独身時代の終焉を迎えるらしい「県北の帝王」O副委員長と、9歳年下の新妻との高級マンションでの新婚生活を楽しむ「ザ・ボンボン」M委員の幸福自慢によってひどい目にあわされました。

そんな私の心の慰めの名言。

「結婚した人々の唯一の楽しみは、他人の結婚に立ち会うことである……悪魔的な楽しみだ」

(ラモン・ゴメス・ド・ラ・セルナ)

もはや笑うしかない法科大学院協会

http://www.lskyokai.jp/about.html

「弁護士5年目の年収(中央値-経費等を引く前の数字)は1,081万円と、安定した収入を得ています。」

「2017年度の法科大学院全体の定員は2,556名で入学者は1,704人です。政府が司法試験の合格者数の当面の努力目標とした1,500人を前提とすると、真摯に勉学に取り組めば入学者の大半が司法試験に合格できる状況になっています。」

 

・・・時々所得と売上を混同した議論というのは、弁護士に限らず、自営業者の生活状況の議論でたまにあるのですが、自ら「経費を引く前の数字」と明記している、つまり経費を差し引く前の売上と分かっているのに、年間売上1081万円を「安定した収入」と断定してしまう法科大学院協会理事長。法科大学院では、弁護士会費がかからず、固定費がかかる事務所も事務員も、事務用品のリースも必要ない事務所経営を教えているらしい。

このまま入学者があと200人減り、入学者の全員が司法試験に合格できる状況になるとよいですね。

恐妻家の法則

歴史上「恐妻家」として知られる人物はそれなりに存在していますが、考えてみれば、彼らの多くは実は浮気をしているような気がします。ここでとりあげた徳川秀忠や源頼朝の浮気は歴史的事実ですし、フランツ1世も、ネット上の記述だけですが、生涯たった一度だけの浮気で子どもができてしまった・・・というものがありました。

もしかすると、彼らは「恐妻家」としてのステージが低いがゆえに浮気をしてしまい、その時の妻や周囲の反応によって「恐妻家」というイメージが後世に残されたのではないでしょうか。

そうすると、真の「恐妻家」とは、歴史上さしたる「恐妻家」的エピソードが残っておらず、「恐妻家」というイメージがない人物なのかもしれないと思い始めました。妻を恐れるあまり浮気をしないことはもちろん、妻の意に反することは実行しない、実行したいとすら思わない夫たちは、それゆえに摩擦も生じず、面白いお話が残りません。しかし、浮気がばれてひどい目にあった夫たちと比べて、より「恐妻家」としてのステージが高いのは、こちらのような気がします。

「恐妻家」の研究は、まだまだ深遠な世界が広がっていそうです。

総員退艦!

もう「新人」というのは失礼な経験年数に差し掛かったある若手弁護士に対して、初めて所長弁護士から発せられた業務命令は

「これは業務命令だ!逃 げ ろ !」

だったとか。

その話を聞いて想像されるシチュエーションが、沈みゆく軍艦からの総員退艦シーンだったら、実にいい感じの廃人。ちなみに、実際にはどのようなシチュエーションだったのかは・・・危険すぎて言えない(今さら)。

日本史上最大の恐妻家

中尊寺を訪ね、奥州藤原氏の歴史に思いをはせた私ですが、その思いは、必然的にその奥州藤原氏を滅ぼした人物に向くことになります。

奥州藤原氏を滅ぼしたのは、言わずと知れた鎌倉幕府の創始者・源頼朝です。征夷大将軍を頂点とした武家による封建支配体制を完成させた彼は、日本史の教科書に必ず太字で記載される、日本史の中でも確実に五本の指に入る偉人の1人と言えます。

源頼朝と言えば、もともと冷徹な政治家というイメージが強く、弟である義経との逸話が有名すぎるほど有名ですが、奥州藤原氏との関係でも同様です。頼朝と仲違いした義経が奥州へ逃げ込むと、三代・秀衡に対して義経を引き渡すよう圧迫し、それを受け流そうとする秀衡から様々な政治的譲歩を勝ち取り、さらに秀衡の死後、跡を継いだ四代・泰衡が頼朝への恐怖のあまり義経を殺害して首を差し出してくると、たちまち

「これまで義経を匿ってきた罪は消えない!それに、義経を引き渡せとは言ったが、殺せとは言っていない!」

と全国から御家人を動員して奥州へ全面戦争を仕掛け、奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ変幻自在の政治力は、まさに日本の首相にしたい人物です(間違っても友人や家族に持ちたくはありません)。

ちなみに、頼朝が得意だったのは、こうした政治的駆け引きだけではありません。

「義経が西国で平家や木曾義仲と戦っていた間、頼朝は鎌倉に引き籠って何をしていたのか?」

という謎は、日本史の教科書には「頼朝は、鎌倉で政治に専念していた」程度の記載しかされないため、具体的によく分からなかったのですが、どうも彼がしていた「政治」とは、御家人関係の様々な紛争の解決、すなわち「裁判」がかなりのウエートを占めていたという説があるそうです。

頼朝の政治と言えば、「侍所」「政所」「問注所」の設置は日本史上必須の知識です。このうち侍所は初代長官にあたる「別当」が和田義盛、政所の初代「別当」も大江広元という割とメジャーどころなのに、裁判を処理する問注所だけはなぜかトップが「執事」の上、初代執事は三善康信という、平家物語的にはどこにも出てこないマイナー人物でした。しかし、それはなぜかというと、頼朝の存命中、こうした裁判はすべて頼朝がやっていたから・・・なのだと言われると、なるほど、納得がいきます。「一所懸命」、自身の領土を守ることに命を賭けており、そうであるにも関わらず、貴族や寺社、あるいはより強い武士の介入によって、非常に不安定な地位に置かれ続けてきた武士たちにとって、「公正な裁判」をもたらす頼朝への信頼と尊敬は絶対的でした。だからこそ武士たちは、頼朝と義経が対決した際、戦争の天才である義経にはほとんど誰もなびかず、頼朝を支持したのです。

・・・それほど冷徹な政治家で、かつ公正な裁判官であった・・・はずの頼朝ですが、妻の北条政子が絡んだ時のアレはいったい、なんなのでしょうか。

頼朝と木曾義仲がいったん和睦した際、義仲の息子を頼朝の娘の婚約者(という名目の人質)として預かることになったものの、結局義仲とは仲違いして滅ぼしてしまい、義仲の息子も殺した・・・後に、息子を気に入っていた政子と娘に泣いて怒られると、自分の命令に従って息子を殺した御家人を処刑し、晒し首にしたとか。

政子の妊娠中に頼朝が亀の前という女性を部下の屋敷に住ませ、浮気のために訪れていたことがばれてしまい、激怒した政子が北条家の縁者に命じて亀の前の屋敷へ乱入させて破壊するいやがらせを行ったところ、これまた激怒した頼朝が何をしたかというと・・・実行犯だけ呼びつけ、土下座して詫びる実行犯の髻を切って屈辱を晴らしたものの(今でいうなら「坊主にした」くらい?)、その後政子やその父親の抗議を受け、結局亀の前を預かっていた部下を島流しにしたとか。

・・・公正な裁判?なに、それ。もう笑うしかありません。御家人たち、泣いて怒っていいぞ。。。

日本史上最大クラスの偉人である源頼朝は、日本史上最大クラスの恐妻家でもあったのです。冷徹にして公正なことが長所である歴史的大人物ですら、妻の前ではここまで支離滅裂になってしまう、それが恐妻家なのです。。。ここだけ抜き取ると、奥州藤原氏はこんなのに滅ぼされたのかと、むしろ哀れみが増してきます。

このように、中尊寺で奥州藤原氏の栄華に触れた私でしたが、結局行き着いたのは、頼朝ほどの人物をここまでキャラ崩壊させる恐妻家属性のおそろしさだったのでした。(((((( ;゜Д゜)))))

ゴールデン・ゴールドの旅

突然ですが、この3連休は家庭をほっぽり出して仕事で一関に来ています。

仕事が一息ついたところで、今後おそらく一生足を踏み入れることがない一関まで来た記念に、中尊寺に行ってきました。

中尊寺というと、平安末期に金の産出を背景として奥州一帯に独立王国的な支配権をふるい、隆盛を極めた奥州藤原氏の菩提寺で、その中でも最も著名かつ重要な建造物である金色堂は、中尊寺、そして奥州藤原氏の象徴的建物として、国宝にも指定されています。

独立の時に事務所名を聞かれて

「ゴールデン・ゴールド法律事務所」

と冗談を言ったところ、聞いてきた側は誰も冗談と思わず、本当にその名前が流通しかけた私にとって、その黄金の輝きは非常にまばゆいあこがれの対象なのです。

しかし、実際に行ってみると、中尊寺金色堂は、雨ざらしにならないように覆堂の中に収められていることもあり、金閣寺のような一見して圧倒される輝きとはまったく異質で、幽玄なる木々、石の奥に隠された荘厳な世界という感じでした。

KIMG0265(堂内は写真撮影禁止でした)

中尊寺は、金色堂も含め、「ゴールデン・ゴールド」というよりむしろ、「奥の細道」でいくつかの名句を残した関係で銅像もあった、松尾芭蕉の雰囲気に包まれていたのです。

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栄華を極めた奥州藤原氏ですが、全盛期を築いた秀衡の死からわずか2年後には滅亡してしまいます。清衡、基衡、秀衡が三代にわたって築き、守り抜いてきた平泉の栄光は、4代目泰衡が日本史上最強の恐妻家の圧迫に屈したことをきっかけとして、たちまち奈落の底へと転落していきました。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。名君が三代にわたって蓄えた膨大な富と軍事力は、それを運用する君主が暗君に代替わりしたとたん、まるで張り子のように無力化されてしまったのです。指導的地位に立つべき者が持つべきものは、金、権力よりも正しい判断力と気概なんだろうなあ・・・と感慨を感じながら、それでも息子には黄金のお土産を買う、ゴールデン・ゴールドな私なのでした。

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