私のもとに配属されてしまった修習生は、一般的修習生と比較して圧倒的な長距離移動を強いられるというのが定説ですが、ある時、「裁判」とか「法律相談」とか「現地調査」とかの移動の具体的な理由をあえて説明しないまま、修習生を遠方に連れて行ったことがあります。
移動先での会話も、事件と直結する内容・・・というわけではなく、あえて曖昧に、事情を知らなければ本当に世間話に聞こえるような話し方をしたうえで、終わった後に修習生に対して
「なんでわざわざここまで来たんですか?」
「実は、これが営業なのだよ」
「え?なんであの会話が営業になるんですか?」
「ふっふっふw」
という展開を予測し、そうなるように注意しながら進めたはずだったのですが…移動先を辞去した後の修習生の一言目は・・・
「先生は、こうやって営業されてるんですね?www」
でした。。。
こうして修習生に分からないように仕向けた意図をあっさりと看破された私ですが、その修習生の履歴書に、私と移動先の、あえて意図を隠して世間話に偽装した会話の真の意味を当然に読み取れそうな社会経験といった特別な要素は、特に見当たりませんでした。もともと人づきあいが得意ではない私が、自分に致命的に欠けているコミュニケーション能力を補う擬態を、こともあろうに何のバックボーンもない修習生に、なんの説明もないまま見抜かれてしまったのですから、その衝撃たるや並みのものではありません。
これが純粋に弁護士としての能力に関するものであれば、私のショックはそこまで大きなものにはならなかったかもしれません。私も弁護士である以上、弁護士に当然必要とされる能力の欠如や不足は、自己責任と受け入れざるを得ないからです。しかし、こうした営業能力は、従来の弁護士に不可欠なもの・・・とは言われてきませんでした。そして、私に致命的に欠如しており、そのことを自覚したがゆえに 様々な屈辱と悲哀をなめながらようやく身につけた程度のものが、彼にとっては何の社会経験すら要さず一目で見抜けるものにすぎなかったのです。
もしや、 名作歌劇ないし映画である「アマデウス」におけるサリエリの絶望とは、このようなものだったのでしょうか?(別に修習生の人格が「アマデウス」におけるモーツァルトのように下品で粗野な人物だったわけでは、たぶんありません)。
というわけで、過去、私が修習生に本気で嫉妬してしまったことがあることを、ここに告解しておきます。ちなみに、だからといって私が修習生を毒殺しようとしたことはありません。