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羽林になれなかった笑六法

「難波」さんは岡山県周辺ではかなり多く、どこまで信頼性があるのかどうかは知りませんが、ネット上での記載では、岡山県下で11番目に多い姓なのだそうです。…なんだ、この微妙すぎる順位は。

しかし、世間は広いもので、なんと「難波」さんの中には、虎ノ門事件で皇太子殿下(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件というとてつもないことをやらかした山口難波家よりさらに上級市民な、ガチ貴族・華族もいたことを、最近知りました。

難波家 – Wikipedia

公家の家格には摂関家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家とあるのですが、難波家は羽林家、きっと「鎌倉殿の13人」で源実朝が「私も羽林だ」と言っていたアレです!

羽林難波家の詳細はというと、藤原北家花山院流、権大納言藤原忠教(1076-1141)、難波頼輔(1112-1186)を祖としており、代々蹴鞠の達人を輩出した一族です。少なくとも明治維新時には存続しており、子爵に任じられています。

当家の祖先とされる難波経房公の生年は不詳ですが、1159年の平治の乱前後に活躍し、悪源太義平の首をはねた(そして、その後に糸引きの滝で義平の祟りの落雷を受けて死亡)はずなので、1120~40年あたりと考えると、もし同族だとすれば、藤原忠教、難波頼輔から見て年代がかなり近いはず…となります。しかし、実際にはこの一族とのつながりをうかがわせる事情は何一つなく、むしろ難波経房やその兄・経遠がその時点ですでに岡山の土着勢力であったことを示すエピソードばかりであることから、残念ながら?当家と羽林難波家とは全く縁がないと思われます。

難波経房の業績がもう少しあいまいならば、

「笑六法は羽林難波家の没落した分家のひとつだったかもしれない!」

と大騒ぎできたのですが、有名人はつらいものです。

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