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ハイセイコーと大学者

東大の内田貴先生というと、残念ながら私はご縁がありませんでしたが、当代における民法の権威であることに異論がある人はあまりいないであろう民法学者です。私が大学に入学する前年の1994年に「民法1」初版本を出版し、95年から司法試験考査委員を務めたというタイミングもあり、私の周囲の受験生も少なからずが基本書として利用していたのですが、そこでの「錯誤無効」の事例は、強烈なこだわりを感じるものでした。

「ハイセイコーの子だと思って馬を買ったら、無名馬の子だった」

・・・ハイセイコー。それは、地方競馬でデビューしながら快進撃を重ねて中央競馬へと攻め上り、1973年の皐月賞を制したサラブレッドで、日本における競馬ブームの火付け役となったことで知られる名馬です。最近の学生には「ハイセイコー」と言っても伝わらないのでは・・・と思っていたら、最近の版ではここがきっちり「ディープインパクト」に変更されていることが判明しました。内田先生、大好きですwwww

しかし、内田先生については、ハイセイコーの事例を喜んでいたころから、私はもうひとつの疑問を心の中で宿していました。

「内田先生、高い馬の代名詞が、なぜハイセイコーなんでしょうか?」

・・・内田先生の設例は、サラブレッドとしての主観的価値と客観的価値に大きな乖離がある例としてハイセイコーの子と無名馬の子を挙げているのですから、当然ハイセイコーの子は、価値が高いことの象徴としての意味となります。しかし、1994年前後の競馬界の情勢を前提とすると、「ハイセイコーの子」にそこまで高い価値を見出す内田説は、果たして適切だったのか、ツッコミの対象となります。

ハイセイコーは、確かに競走馬としては一世を風靡しましたが、種牡馬としてそこまで成功したわけではありません。競走馬を引退し、1975年から種牡馬生活を開始したハイセイコーは、1995年まで種牡馬生活を続行しましたが、種牡馬としての価値に直結する種牡馬別獲得賞金ランキングでは、地方競馬限定で1年だけ1位になったものの、中央競馬と地方競馬の合計値で競う総合ランキングでは、1984年に6位に入ったのが唯一の10傑入りで、20傑に入ったのも5回だけでした。日本競馬における地位が中央>>>地方であったことを併せ考えると、「ハイセイコー」を価値ある馬の象徴とした内田説は、間違いなく異端だったと言わざるを得ません。

「子どもが片っ端から高く売れる」設例であれば、1982年から92年までの11年間で10回日本のリーディングサイヤー(前記ランキング1位)に輝いたノーザンテーストの方が妥当なのです(なお、サンデーサイレンスが初めて1位になるのは95年のため、初版に反映させることは不可能)。また、近い世代の日本馬に限っても、ハイセイコーの数年後に生まれ、走ったトウショウボーイやマルゼンスキーの方が、種牡馬として高い実績を残しているはずです。

しかし、ここでノーザンテーストを設例に使わなかった内田先生は、学説としては異端でも、その魂のあり方は十分に理解できるものです。ノーザンテーストは、海外で競走生活を送り、それも成績は必ずしも一流ではないものの、種牡馬として成功した馬です。

「とにかく成績を残す馬がいい馬だ!」

という価値観のファンとの相性はいいのでしょうが、馬にロマンを求めるタイプを引きつける馬ではありません。トウショウボーイやマルゼンスキーならロマン的にはOKなはずですが、そこはおそらく個人的な思い入れで、おそらく内田先生は、現役時代にハイセイコーの走りに魅惑され、その幻影を追い続けてきたのでしょう。

1954年2月生まれの内田先生は、1972年4月に大学に入学しており、ハイセイコーが皐月賞を制したのはその翌年です。大学生の時に競馬にふれるというのは、決して珍しいパターンではありません。そして、内田先生の出身高校が、ハイセイコーがデビューした大井競馬場がある品川の高校だという事実は、彼がハイセイコーに自分の何かを重ねあわせていたに違いないと思わせるに十分なものです。ちなみに、未成年の学生だから、きっと馬券は買っていないはずです。

というわけで、笑六法は、一度もお会いしたことすらない内田先生に深く共感し、一方的に尊敬の念を捧げ続けています。民法の古い教科書の記載と著者の経歴を重ねる、ただそれだけのことで、笑六法にはこの程度の妄想推理が可能なのです。

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