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見捨てられたる弱者

twitterをサーチしていて、久々にお茶を吹き出しそうになる衝撃に直撃されました。

「壁ドン」などの“恋愛”が教育過程に? 内閣府・男女共同参画局の研究会に物議(ABEMA TIMES) – Yahoo!ニュース

一番目立つ「壁ドン」が面白おかしく取り上げられがちであり、それ自体十分おかしいことは間違いありません。30年前の私が、気になっていた女生徒に「壁ドン」を実践していた場合、その技術的な巧拙など関係なく、翌日には職員室に呼び出され、翌々日からは学校から姿を消し、そのままその学校への在籍記録は学歴から消えていたことでしょう。

もっとも、

「『壁ドン』などという女性に対する暴力行為を肯定するのか!?」

などという意見には同意できません。そもそもなぜ主体が男性、相手が女性という先入観を固定するのかという点はさておき、「壁ドン」とはいわゆる少女漫画発祥の行為であり(壁ドン – Wikipedia)、少女たちに支持されなければ、一般社会に用語が拡大し、定着することなどありえません。少なくとも当時の少女たちの中での無視しがたい一定割合の層は、「壁ドン」を支持し、待ち望んでいたのです!・・・彼女たちの認める相手による、彼女たちの認めるタイミングにおいてなされることを絶対の前提として。

というわけで、「壁ドン」=暴力行為という等式は成り立たず、「壁ドン」が有用な選択肢となる機会も、きっとありうるのでしょう。 「壁ドン」(というより、あらゆる小手先の技術)発動のために学ぶべきただふたつのポイントは、「それをすることによって、しない場合よりも前向きな結果を得ることができる」対象とタイミングの選択なのです。

・・・もっとも、それが学校教育に組み込まれるほど普遍性を有し、学生・生徒の少なくとも多数派にとってそれが必要となるものなのかどうかとは、まったくの別問題です。少なくともフラレタリアートについては、それを学べば学ぶほど、

「俺には少なくとも現世において生かしうる対象もタイミングも訪れることはない」

という結論にしかならないことでしょう。

この議論の中で最も恐ろしい事態は、そこではありません。「壁ドン」などという小手先の一技術ではなく「恋愛」という分野そのものが学校教育の対象として取り上げられることです。フラレタリアートがさらし者になる未来しか見えない。。。

やがて成績評価の対象とされて推薦入試で不利になったり、一般入試に取り入れられることによってフラレタリアートの生きる道がさらに狭められたり・・・。ただでさえコミュニケーション能力偏重の傾向の中、異性に対するアピールの能力が先天的に欠けているフラレタリアートがフルジョワジーどもに対抗できる数少ない場であった学校での成績や入試すら「奴ら」に奪われたら、何が残されるというのか。

最も救いようがないのは、このようなフラレタリアートの民族浄化策に等しい提案が、おそらく提案者たちの主観的には

「哀れなフラレタリアートを救ってつかわそう」

という思し召しでなされているであろうことであり、それこそが一番恐ろしいと言わなければなりません。

フラレタリアートへの迫害は続く。果たして、基本的人権の尊重を一大原則とするはずの日本国憲法下ですら誰からも顧みられることの無き真の弱者に対し、温かい手が差し伸べられる日は、いつの日かやってくるのでしょうか。

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