落日のビザンツ帝国

十字軍の記事を書いたところ、「女帝」陛下から

「聖俗の最高権威ってありましたけど、なぜ私が『俗』なんですか?」

と、目だけが笑っていない微笑みとともに詰問・・・もとい質問されました。

あわてて

「皇帝や王を教会と対置する『世俗権力』と称した世界史に準じただけで、あくまでも『女神様』『女帝』という称号に対応したものです。個人的なキャラクターは一切考慮しておりませぬ」

と弁解したところ、若干の疑いの視線は残っていなくもない気がしましたが、一応ご納得とご理解を得られた・・・ような気がします。

フラレタリアート委員会が割と平和的なので忘れかけていましたが、本来ヨーロッパ史における「聖俗」両権威は常に対立含みであり、だからこそ両者の目的が一致した十字軍が歴史的イベントとして世界史の太字用語になっていること、その「十字軍」も、教皇と国王の協力によって純粋な「聖地奪回」を目指していたのは初期のみで、後半は両者の利害対立が先鋭化し、ついには目的そのものが希薄化していったという歴史の教訓を、危うく忘れるところでした。第4回十字軍で、「聖地エルサレム奪回」を目指して出陣したはずの十字軍によって、なぜか首都コンスタンティノープルを破壊・略奪され、事実上滅亡した同じキリスト教国ビザンツ帝国の二の舞はいやです。

十字軍、決起す?

ある女性会員が、「女神様」「女帝」から、「人民の敵」の討伐軍に誘われたという噂を小耳にはさみました。

http://aozora-law.info/blog/?p=3556

フラセタリアート氏にとって幸いなことに、その場にはたくさんの人がいたことから、「女神様」「女帝」が彼の問題発言の中核である「〇〇〇〇〇」がなんなのかを女性会員に伝えられなかった結果、彼女はとりあえず参戦を留保したようです。

しかし、そもそも「女神様」「女帝」という聖俗双方の最高権威が、共通の目的のために手を結んだという時点でただ事ではありません。しかも、その大義は、フラセタリアート氏の問題発言の場に居合わせた私の目から見て、正当以外の何物でもないのです。

こんな歴史的出来事が過去にあっただろうか、と振り返ってみて思い当たったのは、十字軍。キリスト教、イスラム教共通の聖地であるエルサレムがイスラム勢力の手に落ちたことをきっかけとしてローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教圏である西欧の各国に呼びかけ、その後計8回にわたる大遠征を行ったというアレです(まあ、十字軍の場合、前期はキリスト教VSイスラム教徒の宗教戦争で、後期はそのような構図ですら語れないよく分からないモノに変質したようですが)。

たぶん自分の発言の何が問題だったのかを理解しておらず、それどころか発言自体を覚えていない可能性もあるフラセタリアート氏が、ある朝目覚めてみたところ、自宅周囲が既に十字軍に包囲されている・・・という光景を想像してみたら、なんだか楽しくなって私も十字軍にはせ参じてみたくなってきました。

 

絶望派の歌姫

森田童子さんの訃報を聞き、彼女の音楽ばかりを聞いています。聞けば聞くほど、彼女の音楽には、「絶望派」の精神構造との親和性を感じずにはいられません。

彼女の音楽の特徴として、「ぼく」とその周囲の世界の狭さ、つまり「ぼく」以外に出てくるのが基本的に「きみ」「あなた」(以下「きみ」に統一)だけ・・・という閉じられた人間関係を歌うものが非常に多い点が挙げられます。

「絶望派には親密な『きみ』なんていない!」

と憤る人もいそうですが、「ぼく」と「きみ」は異性なのか、同性なのか、判然としないものが多いことに留意を要します。

そして、「ぼく」と「きみ」の関係は現在ないし過去のある時点において、非常に近しいものである(だった)にもかかわらず、いつの日か壊れゆく予感を漂わせ、あるいは決定的なすれ違いを内包してしまっています。

しかし、2人の関係が壊れたとしても、「ぼく」は「きみ」を責めません。「だめになったぼくを見てきみもびっくりしただろう」と言いながら、その原因は「きみの優しさに埋もれていたぼくは弱虫だった」と、責任はむしろ自分にあると認めています。「きみは変わっちゃったネ」と言いながら、「いまでも優しいあなたのそばにいると涙がこぼれてしまう」ぼくなのです。

彼女の歌の主題の多くは、それが愛であれ、友情であれ、永遠ならざるものを自覚してしまった「ぼく」の悲しみや絶望、あるいはそれが永遠でないことを知りつつ、今は「きみ」との世界に閉じこもってしまう弱さや繊細さです。・・・人間関係における問題点を他人でなく自分に求め、相手や社会が望む自分になれない自分への絶望によって場合によっては死に至る、絶望派の萌芽がここにあります。

しかし、自分自身を絶望の渦中に置き続けることは、実はよほど強い人間にしかできません。人の儚さ、弱さを知りながら、他人を責めないということは、そのすべてを自身で抱え込み、痛めつけることにほかなりません。森田童子さん自身、10年間に満たない活躍の後、活動を「休止」し、そのまま帰ってこなかったことも、彼女の歌と絶望派の立ち位置からすれば、むしろ必然とすら感じられてきます。

不幸にも公用で、エンドレスで連続再生されるアルバムがかかる私の車に結構長時間同乗する羽目になった某女性弁護士が、曲のあまりの深遠さに魂を奪われ、私との会話は適当に生返事で済ませながら、かかっている音楽の歌詞を調べてさらにその深遠さに震え上がったという逸話も、さもありなんなのです。

追悼・森田童子

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180611-00000146-spnannex-ent

本名、死因、素顔とも未公表のまま、65歳で亡くなられたそうです。。・゚・(ノД`)・゚・。

私が大好きなアーティスト・・・と言っても、1976年生まれの私が1972年から83年まで、しかもライブハウスでの活動がほとんどだった彼女をリアルタイムで知っていたわけがなく、知ったきっかけがかのドラマだったことは厳然たる事実なのですが、魂を持っていかれ過ぎてCD全種を、それも当時超品薄で入手不能になっていたものはヤフオクで定価をかなり上回る金額を出してまで買い揃えたというのは、音楽への関心が薄いというよりないに等しい私の人生の中で、稀有・・・というより空前絶後のことでした。

有名といっても「ぼくたちの失敗」しか知らない、知ってて「さよならぼくのともだち」「男のくせに泣いてくれた」までというのが常人だと思いますが、「ぼくを見かけませんでしたか」「海を見たいと思った」とかの曲も、たまらなく好きです。

リア充には決して想像もつかないであろう孤独と、それでも独りぼっちになりきれないままひたすらに「きみ」と「ぼく」の世界を歌い上げた彼女の訃報に対し、心より追悼の意を表明いたします。

 

刑事司法の極めて深刻な劣化

今日は袴田事件の再審開始請求の抗告審の決定が出るということで、事件マニアとしてwktkしていたのですが、結論を見てそんな胸の高鳴りは全てぶっ飛び、怒りしか残りませんでした。

他人の裁判を語るためには、裁判の前提となる証拠を十分踏まえた上でなければなりません。それらを踏まえず、結論だけをどうこう言うのは、本来すずめの鳴き声に等しい価値しかありません。よって、私が関心があるのは、結論がどちらであれ、そこに至るまでの様々な証拠の積み上げに対してどのような評価や判断がなされるか、だった・・・はずなのでした。しかし、今回の高裁の決定は、結論を見ただけで、すずめの鳴き声ほどの価値もないと断じざるを得ません。

再審開始は認めず、執行停止は維持・・・って、何、それ?

袴田事件の論点は、「袴田氏が一家4人を殺したのか否か」です。もともと法定刑が死刑か無期懲役しかない強盗殺人の単独犯で、死者が4名おり、さらに心神喪失・耗弱等の減刑事由もない場合、有罪を前提とするならば、死刑以外はありえません。

つまり、袴田氏に対する結論は、死刑か無罪のどちらかしかないのです。再審開始取り消し=死刑であれば、そんな袴田氏を刑事施設で拘置せず、社会で生活させることなど、許されるはずもありません。

ところが東京高裁は、袴田氏に対する再審開始決定を取り消したにもかかわらず、再審開始という結論を出した原決定が踏み込んだ死刑の執行停止については、「年齢、健康状態を踏まえて」そのまま維持するというものでした。これは、

「袴田氏は有罪だと思う。けれど、収監されたり、万が一死刑が執行されたりしたら(注・80歳を超えた高齢死刑囚が死刑を執行された先例はない)寝覚めが悪いから、収監はしないでおけば、どうせ特別抗告審で最高裁が結論を出すだろう」

という逃げ以外の何物でもありません。本件を捜査機関の拷問と捏造の産物であると判断し、それらの結果としての超長期にわたる拘置を許し難い不正義と断じた必然的な結論として、前例のない死刑の執行停止→釈放にまで踏み込んだ原決定と比較して、同じ結論の決定であるにもかかわらず、なんと重みが違うことか。真摯な証拠の検討の上で有罪という結論に達したのであれば、なぜ世論の非難などものともせず、「一家四人強殺犯」と認定した袴田氏に対し、毅然と「一家四人強殺犯」にふさわしい処遇を行わないのか。そこに迷いがあるとすれば、「疑わしきは罰せず」という刑事司法の鉄則、そしてこの法理が再審においても適用されるとした最高裁判例に反した決定であることを、彼ら自身が認めていることにほかなりません。

裁判官とは、無実の人間を死刑にすることもできれば、死刑以外あり得ない人間を無罪放免にすることもできる特別な職業です。裁判員裁判の導入によって若干景色は変わりましたが、それでも評議では全裁判員の意見が一致しても、裁判官が誰も賛成しない場合はその認定ができないなどのルールが決められています。

そんな彼らが、「死刑か無罪か」という究極の判断に対し、自らの判断への責任を放棄するかのような逃げを打っただけの今回の高裁の決定には、証拠、真実の解明、そして裁判官の職務に向けた真摯さが全く感じられず、読み込む以前に何の関心も湧きません。

ちなみに、現在82歳の袴田氏は、現在の確定死刑囚の中で最高齢というわけではなく、85歳の高田和三郎、90歳の大濱松三という、より高齢の確定死刑囚も存在します。特に大濱松三は、いわゆる「ピアノ騒音殺人事件」で死刑判決が確定しましたが、1審で死刑判決をうけた後、2審で裁判所が精神鑑定を行ったところ、責任能力に問題があったという意見書が提出されることになった段階で、死を望んだ被告人自身が控訴を取り下げたといういわくつきの案件ですが、おそらくただの一度も再審請求すら行わないまま、確定から40年以上執行もされずに東京拘置所の闇の中でただ生きていると言われています。年齢と健康状態という条件ならば、こちらの方が悪い可能性があるのですが、果たして今回の裁判官は、こうした整合性についてどう答えるのでしょうか(注・そどうせ「答えないし、答える必要すらない」なんてことは十分わかっています)。

日本の刑事裁判の劣化はより激しいものがあると痛哭せざるを得ません。

 

日本がたぬきのものになる!【今週の鬼太郎】

今週の鬼太郎は、まさかの2話連続の前編(事前予告なし)。鬼太郎でこのパターンは初めてなので、私はあまりに展開が遅い20分過ぎに

「ははーん、これは来週に続くパターンだな」

と察したものの、息子は鬼太郎が石になり、日本の政権がたぬきに移譲されて終わったところで、

「えーーーーーーーっ!?!?!?」

ととても面白い反応を見せてくれました。

今週は「平成狸合戦ぽんぽこ」かと思いきや、一転してシリアスな「シン・ゴジラ」展開だったわけですが、先週まなちゃんを「マイエンジェル」と呼んでストーカーし、傷心旅行へ行っていたはずのねずみ男が、今週は冒頭からいきなり八百八狸軍団の手下に加わっていたらしく、緊急事態で鬼太郎を呼ぼうとしたまなちゃんをいきなり狸軍団に引き渡すというシュールな展開にしびれました。先週までストーカーしていた相手を、なんの愛憎も葛藤も示さず敵に売り渡す安定のクズっぷりこそ、ねずみ男によく似合う。。。

ところで、日本征服を企む八百八狸軍団がこだわったのは「総理大臣からの政権移譲」。政権を移譲された狸がどんな社会を目指すのかは今週の段階では不明ですが、妖怪獣の(予期せぬ降臨と)圧倒的な戦闘力を見せつけ、さらに総理大臣、防衛大臣を含む国家首脳を確保した彼らがあえてそのような形式にこだわるところからすれば、彼らの目的が人間社会の徹底的な破壊ではなく、平和的な権力委譲による既存インフラ等の活用を含んでいることを暗示しています。

日本国憲法下で果たして「総理大臣を確保した上での権力委譲表明」がどのような正統性を持ちうるのか・・・という点は、考察の余地があります。「権力委譲」が総理大臣の地位だとすればそれは国会の権限であり、あるいは行政権の譲渡だとすれば、三権分立の超越にほかなりません(そもそもたぬきは国会議員どころか、憲法の適用範囲外であると解されることもあわせればなおさらおかしい)。また、「権力委譲」の事実を国民に伝えるたぬきの放送の中では

「法律の変更は追って・・・」

と言っていましたが、総理大臣が勝手に立法権を譲渡することの根拠は憲法上説明がつきません。

鬼太郎世界では二つの月の発生という事態を受けて戒厳令が布告されていたっぽいので、鬼太郎世界では戒厳令、それも総理大臣が行政権に加えて立法権も統括する形式のものが憲法改正によって導入されていたとも考えられますが、憲法下の権限の非時限的譲渡まで定める憲法がこの世にあるとは思えません。どうしたところで八百八狸軍団への権力譲渡は、憲法的に正当化されえないとみるのが穏当です。

それなのに、八百八狸軍団がわざわざ「権力委譲」の形式にこだわったのが、たぬきゆえの憲法秩序への無知によるのか、法を超えた「言霊」的な意味があるのか、それとも単なる洒落なのか・・・関心は尽きません。

それにしても、国家的危機において決定的すぎるダメ行動をとった張本人であり、しかも

「(政権を)移譲したら、責任は全てあなた方に移るんですからね!」

と確認したうえでたぬきに権力を移譲し、その後になって

「たぬきに政権を奪われる・・・これって、私の責任!?」

と気づいて愕然とする総理大臣の無能さは、全サブカル世界を通じても屈指と言わざるを得ません。世襲国家ならともかく、このような無能なトップに政権を与えたのが民主主義の結果であれば、国の衰退、場合によっては滅亡すらもまた必然と言わなければなりません。

人民の敵、ここにあり

昨夜は「フラセタリアート」氏の発言が鬼畜すぎて、周囲全ドン引き。。。

「〇〇〇〇〇さえすれば、あとはなにやってもいいんでしょ?」

・・・世界が見ている可能性があるインターネットでは、この伏字を解除する度胸は、私にはありません。他にも

「(彼にとっての)女性の年齢の許容範囲は・・・××さん(その場に居合わせた女性会員)の前で言うんですかぁ?」

とか、もう失言なんてもんでは済まされません。

彼に法の裁きを受けさせるためには、共謀罪でも通信傍受でも安保法制でも憲法改正でも、ありとあらゆる法的・政治的手段を動員しなければならぬということを思い知らされました。

男女差別を感じる瞬間

日常生活の中で、私が「男性が差別されている」と感じる瞬間は確かに存在します。

それは、コンビニでトイレに駆け込んだ時、2つのトイレのうち男女兼用のひとつがふさがっており、もうひとつの空いている(と思われる)方が女性用の場合です。

この場合、もし女性であれば、何の問題もなく女性用トイレに駆け込んで終わりとなります。しかし、男性の場合、唯一の立ち入り可能な男女兼用トイレには立ち入れず、おそらく現在誰も使用していないであろう女性用トイレは、現在空いていると思われるにもかかわらず、利用を許されないという理不尽に見舞われるのです。

その不満は、トイレに駆け込んだ原因となる欲求の程度によっては、不満ごときにとどまらず、世界のすべての女性に対する呪いと殺意につながりかねない過激な瞬間となります。この魂の叫びは、正直なところ、小手先の細工ではいかんともしがたいものがあります。

男女平等を目指す人々は、理念的なことを声高に叫ぶより、コンビニのトイレ情勢の形式的平等を実現するべきだというのが、たぶんほとんど支持されない、私の個人的願望だったりします。

 

最年少刺客

http://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20180606_200

https://www.oricon.co.jp/news/2112966/full/

「第37回ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を受賞したダイアモンド☆ユカイさんについて、お子さんによる「父親の似顔絵」が似顔絵部門の最終選考に残っていたことが話題になっていますが、この親子W受賞を阻止?した文部科学大臣賞の似顔絵が、うちの息子による私の似顔絵であることを知る人は、少ない・・・www

http://www.fdc.gr.jp/wp/wp-content/uploads/2018/06/2018_nigaoe_01.jpg

 

横国陥落

ピーク時は74校を数えた法科大学院の36校目の募集停止は、横浜国立大とのこと。

2019年度の入試要項をまだ発表していない法科大学院もいくつかあるようですが、果たしてどうなるのやら。